Quantcast
Channel: みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”
Viewing all 2446 articles
Browse latest View live

長崎外の古写真考 目録番号:1099 鶴岡八幡宮境内

$
0
0


         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1099 鶴岡八幡宮境内

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1099 鶴岡八幡宮境内
  〔画像解説〕
  右手に鶴岡八幡宮の茅葺のお堂があり、その向こうの一段下がったところに鳥居が立っている。左手の奥には蓮池があり、その向こうは森になっている。

  ■ 確認結果

 目録番号:1099「鶴岡八幡宮境内」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.7
1871/9/1 に掲載された写真である。
 資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号:1083 墓地(1)

$
0
0



           長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1083 墓地(1)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1083 墓地(1)
  〔画像解説〕
  写真外に ""HAKASHO OR GRAVE YARD ""とある。荒れ果てた感があるが、無縁仏の墓所ででもあるのだろうか。

目録番号:1275 山手からの横浜居留地(3)
  〔画像解説〕
  横浜・貝殻坂からの眺め。山手へ上る坂道である。手前が元町、向こうが外国人居留地である。手前は、日本人の墓地である。F.ベアトの撮影。

  ■ 確認結果

 目録番号:1083「墓地(1)」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.10 1871/10/16 に掲載された写真である。
 資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

 新聞116頁の記事に「FROM the Roku-ji-zo,」とあり、手がかりとなろう。
 次の目録番号:1275「山手からの横浜居留地(3)」に写る、横浜・貝殻坂の日本人墓地のような感じがするが…。「F. ベアト写真集1」21頁にも、墓地の別写真がある。

長崎外の古写真考 目録番号:3982 庭園の風景(4) ほか

$
0
0


       長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3982 庭園の風景(4) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:3982 庭園の風景(4)
 
 目録番号:4071 庭園の風景(5)     (同写真 掲載略)

  ■ 確認結果

 目録番号:3982「庭園の風景(4)」と、目録番号:4071「庭園の風景(5)」(同写真 掲載略)は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。庭園がどこかは不明。
 横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊93頁に、「130.庭」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3948 芦ノ湖(13)

$
0
0


          長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3948 芦ノ湖(13)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:3948 芦ノ湖(13)
  〔画像解説〕
  箱根関所跡付近から見た箱根宿の眺望。芦ノ湖に臨んでいる建物は大きな藁葺き屋根の建物と一体のもので、いわゆる本陣である。本陣は江戸時代、参勤交代の折に大名等が宿泊・休憩した。背後の山は鞍掛山で、芦ノ湖の手前には、杉並木と湖を眺める職人風の人物が見られる。

  ■ 確認結果

 目録番号:3948「芦ノ湖(13)」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
 横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊85頁に、「89.芦ノ湖を隔てて箱根宿を望む」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

$
0
0


         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

  ■ 確認結果

 目録番号:3989「芦ノ湖と箱根宿」は、〔撮影者:F.ベアト〕かも知れない。
 横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊87頁に、「92.芦ノ湖。湖岸に箱根宿が見える」として掲載されている。

長崎の古写真考 目録番号:2901 南山手からの大浦と出島(1) ほか

$
0
0




    長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2901 南山手からの大浦と出島(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:2901 南山手からの大浦と出島(1)

 目録番号:2902 南山手からの大浦と出島(2)
  〔画像解説〕
  撮影者は不詳であるが、埋立地の様子(左手の第2期埋立地が造成されたばかりである)から撮影時期は文久2(1862)年であり、このアングルでは長崎大学が所蔵する最古の写真である。手前のベルビュー・ホテルがまだコの字型であり、東山手にはほとんど建物が見られない。

  ■ 確認結果

 目録番号:2901「南山手からの大浦と出島(1)」と、目録番号:2902「南山手からの大浦と出島(2)」は、パノラマ写真の中央部分である。〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。ベアトは文久3年(1863)春に来日した。撮影年代はその頃が考えられる。

 横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊24,25頁に、パノラマ風景「19.長崎全景」(クリック拡大)として掲載されている。同解説は次のとおり。

  19.長崎全景
 南山手からの眺望。中央は大浦外国人居留地、海を挟んで左手遠方に出島が見える。次頁左側の写真右手山の中腹にある塔を持つ建物は英国聖公会(文久2年10月竣工)、その右手前の甍は妙行寺。(C)

 この項は次の記事も参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/59840218.html

長崎外の古写真考 目録番号:3219 下関(3)

$
0
0



            長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3219 下関(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:3219 下関(3)

 目録番号:1191 下関(2)
  〔画像解説〕
  関門海峡と赤間神宮。内田九一の撮影による。赤間神宮は壇の浦で果てた幼帝安徳天皇を祀る。安徳天皇と平家一門への回向として5月3日には「先帝祭」が行われる。

  ■ 確認結果

 目録番号:3219「下関(3)」は、次の目録番号:1191「下関(2)」のとおり、下関の赤間関「亀山八幡宮」で、〔撮影者:内田九一〕であろう。
 金子隆一氏論文HP”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置”69頁に、「図20 赤間関 亀山八幡宮」として掲載されている。
 明治天皇が下関を訪れたのは、明治5年(1872)6月。随行した内田九一が撮影した写真である。東京都写真美術館蔵。

長崎外の古写真考 目録番号:2409 石仏(2)

$
0
0


            長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2409 石仏(2)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:2409 石仏(2)

  ■ 確認結果

 目録番号:2409「石仏(2)」は、東京の「千住小塚原の延命地蔵尊」である。
 石黒敬章氏編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊の414頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

  〔千住小塚原の延命地蔵尊〕 記記毅横魁檻械
 小塚原(現荒川区南千住5丁目)には鈴ヶ森と並ぶ江戸の処刑場があった。日本橋本町にあった浅草刑場が次第に郊外に移され、小塚原へ落ち着いたのである。寛保元年(1741)に建てられた延命地蔵尊と、元禄11年(1698)に建立の南無妙法蓮華経とお題目の刻まれた石碑が痛々しく写っている。明治5年頃のキャビネ大。

長崎外の古写真考 目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士達

$
0
0


   長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士達

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士達

  ■ 確認結果

 目録番号:3422「イギリス公使館庭のガワーと武士達」は、安政6年(1859)、横浜のイギリス公使館となった東禅寺の庭で、ロシエが撮影した写真である。横浜開港記念館所蔵。
 横浜開港記念館編「F.ベアト写真集 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊98頁の「解説編」の中に、資料写真「4.東禅寺の庭の護衛兵 安政6年(1859)、ロシエ撮影。当館蔵」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:4221 笑う女性 ほか

$
0
0



         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4221 笑う女性 ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:4221 笑う女性
  〔画像解説〕
  両腕を首の後ろで組んで、くつろいだポーズをとる丸髷の女性で、黒繻子(くろしゅす)の襟をつけた大柄な縦縞の普段着を着ている。ただ綸子(りんす)文様の帯は不釣合である。

 目録番号:5604 笑う日傘の女性

  ■ 確認結果

 目録番号:4221「笑う女性」と、目録番号:5604「笑う日傘の女性」のモデルは同一人であろう。
 名前は「笑子(えみこ)ちゃん」。笑う写真を日本人に根づかせることに寄与した最大の功労者。(筆者が勝手に命名。いつまでも名無し有名人では困るから)と、次の資料がある。

 石黒敬章氏著「幕末・明治のおもしろ写真」平凡社2004年初版第4刷16,21頁の女性とそのポーズ。目録番号の写真とほとんど似ている。同解説は次のとおり。
  笑う写真のルーツを探る
 〔写真13~23〕絵はがきになった「笑子ちゃん」。この女性の笑って絵はがきは40~50種ありそうだ。コロタイプ印刷、手彩色。発行は明治38~45年頃だが、撮影は明治25~35年であろう。明治35年発行の横浜写真のアルバムに同じ写真が含まれているので、明治35年以前であることは確実。

 A.ファサリは、明治23年(1890)イタリアに帰国した。写真館は共同出資者や日本人写真家の手で経営が続けられたが、著者がこのA.ファサリ?の作品に、本文でもふれられていないのは、何かあるのだろうか。
 年表風に整理した18頁に、○明治20~35年 横浜写真に笑う「笑子ちゃん」登場。とは記している。

長崎外の古写真考 目録番号:6751 お神輿(3)

$
0
0


           長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6751 お神輿(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:6751 お神輿(3)

  ■ 確認結果

 目録番号:6751「お神輿(3)」は、ファサリ商会発売。〔撮影地:横浜〕ではないだろうか。
 石黒敬章氏著「幕末・明治のおもしろ写真」平凡社2004年初版第4刷100頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

  珍しい横浜写真
 〔写真7〕子供神輿。バックに低い丘が写っているので横浜だろうか。旭日旗を持っているのでもう明治も後半だ。ファサリ商会発売。

長崎外の古写真考 目録番号: 381 東京の町並み(1)

$
0
0

        長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 381 東京の町並み(1)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号: 381 東京の町並み(1)
  〔画像解説〕
  川向うに 「江口商店」 の看板が見える。 手前の洋風の建物には目印が見えない。

  ■ 確認結果

 目録番号: 381「東京の町並み(1)」は、東京の「新橋」である。橋向こうは金春通りの花街。客待ちの人力車が並ぶ。撮影年代は、明治15年前後のよう。
 長崎大学データベースで、以前は「超高精細画像」を見ると、詳しい画像解説があった。それがどうした事情か、最近のシステムでは「ボードインコレクション」以外、全部省かれ困っている。
 
 石黒敬章氏著「続 幕末・明治のおもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷142~147頁によると、著者が次のとおり撮影場所を比定し、「新橋」と発見された経過が記されている。

  「新橋」である根拠
 ゞ兇傍縞遒あること。
 光線の具合が合っていること。
 6狂海Δ侶が似ていること。
 つ觜颯曠謄襪両貊蝓糞イ罰囘戞砲合っていること。
 セ彭磴肋林時計店本店だったこと。

「上野彦馬の人物像」による上野撮影局撮影作品

$
0
0










               「上野彦馬の人物像」による上野撮影局撮影作品

 長崎伝習所出島事始め塾企画・編集「上野彦馬の人物像ーその業績とその後の長崎」が平成15年3月に発行されている。塾の研究成果の報告書。
 「上野撮影局が撮影した写真」が、次のとおり掲載されている。参考のため(1)(2)の肖像写真を除き、そのまま載せる。

 7.上野撮影局が撮影した写真
 (1)日本人・ 写真(35-1~20)     掲載略
 (2)外国人・ 写真(36-1~10)     掲載略
 (3)風景写真・ 写真(37-1~22)
 (4)軍 艦・ 写真(38-1~ 8)
 (5)その他・ 写真(39-1~ 4)

  ■ 確認結果

 全部が「上野彦馬」撮影作品と思われそうな写真集の報告書だが、そうではない。あくまで「上野撮影局が撮影した写真」と記す。一部、明らかに門下生で後に開業した「内田九一」撮影とされる作品も見られるようだ。

 参考文献・資料、写真所蔵は、59頁にある。長崎大学附属図書館は、この報告書も生かしさらに研究を進め、「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」を整備していただきたい。

長崎外の古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「母と子」 ほか

$
0
0







      長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し ベアト撮影「母と子」 ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:な し ベアト撮影「母と子」 ほか

  ■ 確認結果
 
 石黒敬章氏著「幕末・明治のおもしろ写真」平凡社2004年初版第4刷77頁の写真と解説は次のとおり。

  上野彦馬の不思議発掘
 〔写真7〕いたけない子を背負う女性。ベアトのアルバムにあるからベアト撮影だが、背景が上野彦馬の家であるよう気がしてならない。この女性も、『甦る幕末』280頁掲載の女性に似ている。ベアトが彦馬の写場を訪れた際、この写真も撮ったということは考えられる。

 私もこの女性は気になっていた。横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」及び「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊に再三、登場する。
 『甦る幕末』280頁掲載の上野彦馬撮影女性か、また上野写場かは別として、ベアト撮影の6作品の女性は、着物の色合いなどから同一人のようにも見える。

 第1集 162頁  226.母と子   
 第2集  40頁   70.官吏の妻女
       64頁   89.踊り子
       76頁  105.駕籠
       81頁  115.母と子
       88頁  124.化粧

 長崎大学データベースに目録番号がある作品があるので、本ブログの次の記事を参照。
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64716215.html
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64717063.html

古写真と絵葉書に見る茂木街道

$
0
0
















                     古写真と絵葉書に見る茂木街道

 長崎大学附属図書館「古写真研究 第3号」2009年5月発行の57~62頁に掲載されているブライアン・バークガフニ氏の研究紀要「古写真と絵葉書に見る茂木街道」。地元や茂木史談会には貴重な資料となるだろう。

 英文のため、本文は省略し、古写真と絵葉書、図版解説の部分だけ抜粋した。長崎大学データベースには、ほかにも多数の茂木街道関係写真があるので参照。新しく茂木街道と判明した作品もあり、本ブログの次の記事としている。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/59701235.html

長崎の古写真考 目録番号: 531 和楽器で合奏する女性たち(1)

$
0
0


     長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 531 和楽器で合奏する女性たち(1)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号: 531 和楽器で合奏する女性たち(1)
  〔画像解説〕
  日本髪に着物姿の女性4人が琴・明笛・堤琴・月琴を演奏する写真。

  ■ 確認結果

 目録番号: 531「和楽器で合奏する女性たち(1)」は、アルバムA「伝上野彦馬作品集」からの写真(整理番号12-1)。〔撮影者:上野彦馬〕であるかは、調査中のよう。
 長崎大学古写真研究会「古写真研究 第1号」1994年4月発行100頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

 1)楽器で合奏する女性たち(12-1)「人物」
 日本髪の若い女性4人が琴、横笛、胡弓、月琴を弾き合奏している図。背景は布を張り、床にジュータンを敷く。長崎から始まって全国的に流行した明清楽の演奏風景を演出したもの。スタジオで撮影。いかにも長崎の風俗らしい演出といえよう。(写真2)

長崎の古写真考 目録番号: 669 老夫婦(1) ほか

$
0
0



         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 669 老夫婦(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号: 669 老夫婦(1)
  〔画像解説〕
  白髪に髭を生やした夫と白髪の妻。人生の年輪を感じさせる目が輝いている。

 目録番号:2375 老夫婦の肖像

  ■ 確認結果

 目録番号: 669「老夫婦(1)」は、アルバムD「伝上野彦馬作品集」からの写真(整理番号15-9)。〔撮影者:上野彦馬〕であるかは、調査中のよう。
 目録番号:2375「老夫婦の肖像」は、その参考資料の写真として掲げられている小川一馬撮影の「明治の老夫婦」。〔撮影者:小川一馬〕である。

 長崎大学古写真研究会「古写真研究 第1号」1994年4月発行105~107頁に掲載されている。同解説は次のとおり。
 …このうち、「老夫婦」(15-9)は、幕末・明治にかけて変貌する時代世相を見てきた眼の輝きを見事に写し撮った、すばらしい写真といえよう(写真8)。これは小川一馬が父母を撮ったあの有名な「明治の老夫婦」に匹敵する傑作だといえよう(注2・写真9)

 注2 斎藤多喜夫「横浜写真小史ーF.ベアトと下岡蓮杖を中心にー」(『F.ベアト幕末日本写真集』横浜開港資料館 1987年刊)ほか。

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の町から長崎港方面を望む」

$
0
0


      長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の町から
      長崎港方面を望む」

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の町から長崎港方面を望む」

  ■ 確認結果

 長崎:江崎べっ甲店所蔵『上野彦馬撮影局ー開業初期アルバムー』中の写真。長崎大学データベースでは見当たらない。
 尼崎市総合文化センター編「アルバムに見る幕末・明治の写真 -上野彦馬撮影局 開業初期アルバム大公開ー 目録」2007年5月発行の13頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

  7-2 長崎の町から長崎港方面を望む     元治元(1864)年頃
 上野撮影局の近くの高台から中島川および町越しに対岸の稲佐側を望んでいる。背後の高い山は形から長崎港口の神ノ島と判断できる。幕末に長崎の町の奥部から海側に向けて撮られた写真として珍しい。

 撮影場所は後日調査して修正するが、「上野撮影局の近くの高台」というより、寺町の「大音寺」あたりからではないだろうか。古写真中央の森は、大徳寺跡。その奥が現在の県庁あたりの高台と思われる。
 背後の高い山は形から長崎港口の「神ノ島」と判断しているが、稲佐山から南に続く尾根の先端「天門峰」であろう。「神ノ島」までは見えないだろう。
 大音寺から長崎港口を向けた写真は、現在のところ手持ちがないので、あくまで参考。

長崎の古写真考 目録番号:3245 大音寺

$
0
0


             長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3245 大音寺

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3245 大音寺

  ■ 確認結果

 目録番号:3245「大音寺」は、〔撮影者:上野彦馬〕であろう。座っている1人の人物が同じ。
 長崎:江崎べっ甲店所蔵『上野彦馬撮影局ー開業初期アルバムー』中の写真。尼崎市総合文化センター編「アルバムに見る幕末・明治の写真 -上野彦馬撮影局 開業初期アルバム大公開ー 目録」2007年5月発行の71頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

  36.大音寺              慶応2(1866)年頃
 長崎の浄土宗名刹大音寺の本堂。間口11間半、奥行き10間の入母屋作り。幕末に荒廃したが元治元(1864)年に大改修が施された。この写真は大改修直後のため漆喰が新しい。同じころ相前後してベアトも何枚かこのアングルの写真を残している。

長崎外の古写真考 目録番号:1191 天神橋と八軒家

$
0
0


          長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1191 天神橋と八軒家

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1191 天神橋と八軒家
  〔画像解説〕
  天満橋八軒家は、淀川を上下し、京・伏見と大阪を結ぶ三十石舟の船着き場であった。橋の南詰めに八軒の家があったことからこの名が残ったという。

  ■ 確認結果

 目録番号:1191「天神橋と八軒家」は、〔撮影者:内田九一〕と思われる。
 学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊5頁に、明治5年(1872)明治天皇大阪・中国・西国巡幸写真として掲載されている。同解説は次のとおり。
 巡幸に随行した写真師は、内田九一等である。(1頁)

   5 大阪天神橋
 大阪市北区天神橋筋と東区を結び大川と堂島川・土佐堀川の分岐点に架かる橋で、現在市道天神橋天王寺線が通ずる。明治天皇の臨幸コースとは関係ないが、6月6日前後の中之島側からの撮影とみられ、同一写真は東京国立博物館・霞会館にも保存されている。着色写真。
Viewing all 2446 articles
Browse latest View live