Quantcast
Channel: みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”
Viewing all 2446 articles
Browse latest View live

長崎外の古写真考 目録番号:4049 托鉢の尼僧

$
0
0


           長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4049 托鉢の尼僧

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:4049 托鉢の尼僧
  〔画像解説〕
  スティルフリード=アンダーセン製作のアルバムの一枚。子供の托鉢僧。左の子供は胸に路銀と思われる袋をぶらさげ、右の子供も野宿できるように厚着である。

  ■ 確認結果

 目録番号:4049「托鉢の尼僧」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
 横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2-外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊69頁に、「99.托鉢の尼僧」として、掲載されている。
 同写真集1の161頁にも、「222.托鉢する尼僧」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:6206 横浜弁天社(3)

$
0
0


         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6206 横浜弁天社(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:6206 横浜弁天社(3)

  ■ 確認結果

 目録番号:6206「横浜弁天社(3)」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
 横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2-外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊28頁に、「26.洲干弁天社境内 左手奥が社殿」として、掲載されている。

長崎の古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 (再掲)

$
0
0





      長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場 (再掲)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3232 高島炭鉱石炭船積場

  ■ 確認結果

 以下、古写真集「上野彦馬歴史写真集成」から、わかった作品を数点、取り上げてみる。
 まず、長崎大学データベースでは、目録番号:3232「高島炭鉱石炭船積場」。撮影者は、「内田九一」か、それとも「上野彦馬」だろうか。
 馬場 章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊53頁に、「38.高島石炭場」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  38.高島石炭場
 高島地区は、石炭産業を唯一の基幹産業として明治から昭和にわたって発展した、いわゆる「軍艦島」を含む一帯。画面左に外国人風の男性ニ名の姿が見られる。画面右には「長嵜高島石炭場 Takashima mine.Nagasaki」の記載がある。
  撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治元年(1868)  所蔵者 学校法人産業能率大学

 一方、上野彦馬門下の「内田九一」が撮影したとする「長崎高島炭鉱石炭船積場」。内田写真株式会社蔵の写真がある。 http://news.walkerplus.com/2010/0115/17/photo04.html

 はたして、撮影者はどちらなのか。撮影した年代もいろいろある。本ブログの次の記事を参照。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/59951394.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/50331356.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/61936967.html

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」

$
0
0








     長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」
  〔画像解説〕
  長崎の運河とそこに浮かぶ木造の小舟。当時の長崎では数多くの運河が掘削され、物流の回路が形成されていた。「Nagasaki.Japan.One of the numerous Canals.intersecting the Native City.“Low water.”」(地元の街を交差する多数の運河のひとつ、低水位、長崎、日本)との書込みがある。

 ■ 確認結果

 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊54頁に掲載がある「41 長崎の運河」。画像解説は上記のとおり。
  撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治6年(1873)  所蔵者 学校法人産業能率大学
 長崎大学データベースに見当たらない。具体的な撮影場所の解説がない。

 写真中央左にアーチ式石橋が写る。新地蔵の銅座側門口に昔から架かっていた石橋「新地橋」である。後ろの木立の高台は大徳寺跡。左端奥から愛宕山の稜線が下る。
 現在の十八銀行本店前あたり、中島川河口に架かっていた「新大橋」の上から、合流する銅座川を向いて、「新地橋」手前の舟だまりを写していると思われる。
 新地橋の地図は、九州大学デジタルアーカイブから「長崎港新図」 明治27年(1894) 出島部分の拡大。

 この作品は、上野彦馬撮影次の目録番号:6078「大徳寺跡から新地と出島を望む」を参照。
 長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の29頁による解説は次のとおり。
 「新地橋」を大徳寺跡から、逆方向に写している。「新地橋」の貴重な石橋写真であるのに、「新地橋」には注目されていない。

21 大徳寺跡から新地と出島を望む   278×215
 明治元年(1868)に廃寺になった大徳寺跡から新地ごしに出島を望む。明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋と中島川河口部の長さ48.6mの新大橋、さらに梅香崎と西浜町を結ぶ梅香崎橋が見える。前ニ者は木製の桁橋である。出島右の茂みの中に県庁舎は見えない。遊歩道建設のための出島の築石の石垣が新しい。左の新地蔵裏の内海の埋立が進んでいるのがわかる。右の川は銅座川。(21・22・23は3枚組写真)

 「新地橋」の記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/58928608.html
 「広場場橋」の写真は、 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/61802633.html
                 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/63437649.html

長崎の古写真考 目録番号:4879 諏訪神社(4) ほか

$
0
0




          長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4879 諏訪神社(4) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:4879 諏訪神社(4)

 目録番号:3253 諏訪神社(2)
  〔画像解説〕
  明治中期(1887)頃の手彩色の写真。秋のくんちの踊り馬場から参道入り口方面を見た写真。三つの鳥居が重なって見える。明治中期の、諏訪神社参道の風景。

  ■ 確認結果

 目録番号:4879「諏訪神社(4)」と、次の目録番号:3253「諏訪神社(2)」は、同じ写真である。後者の画像解説は「大鳥居」。解説を入れ間違えている。
 青銅馬を写したこの写真は、〔撮影者:上野彦馬〕のように思われるが、違うところがある。

 上野彦馬撮影の写真は、馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊55頁に、「42.諏訪神社」として掲載されている。同解説は次のとおり。
  42.諏訪神社
 上野撮影局近くに鎮座する諏訪神社。江戸時代初期に造営された鎮西大社諏訪神社は安政4年(1857)に火災で焼失し、明治2年(1869)に新社殿が再建された。No.94も同神社の写真。
  撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治3年(1870)頃  所蔵者 学校法人産業能率大学

 画像を比べると、上野彦馬撮影は撮影の向きが少し左へ寄っている。青銅馬などに蔭がない。拝殿後方左の木立も繁り方が少し違うようである。
 目録番号:4879「諏訪神社(4)」は、画像の鮮明さから、〔アルバム名:上野彦馬(?)〕のとおり、上野彦馬作品とも考えられるが、今のところ、何とも言いようがない。

 諏訪神社境内案内による「神馬像」の説明は、次のとおり。
   神馬像(しんめぞう)
 (現在ある神馬像は)平和祈念像の作者故北村西望氏102歳時の作です。昭和59年第16回日展に出品され、昭和天皇の御在位60年を記念して昭和60年10月に奉納されたものです。
 そもそも当神社には、明治3年に三菱重工業長崎造船所の前身である長崎製鉄所より創業記念として神馬像が奉納されておりましたが、大東亜戦争時に国へ供出され、それ以来神馬像は姿を消しておりました。
 故北村西望氏の奉納に際し、長崎の歌人 故池田可宵氏は次の俳句を残されました。
「諏訪の杜 神馬もどりて 竹の春」

長崎の古写真考 目録番号:2882 長崎立山からの長崎港(1) (再掲)

$
0
0



     長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2882 長崎立山からの長崎港(1) (再掲)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:2882 長崎立山からの長崎港(1)

  ■ 確認結果

 目録番号:2882「長崎立山からの長崎港(1)」は、〔撮影者:上野彦馬〕であろう。
 馬場 章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊60頁に、「48.福済寺裏山からの長崎港」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  48.福済寺裏山からの長崎港
 長崎港の入江を撮影した風景写真。上野撮影局から約1キロメートル離れた長崎市筑後町に位置する福済寺は崇福寺(No95)、興福寺、聖福寺とともに長崎四福寺と呼ばれる黄檗宗の唐寺で、戦前は国宝指定されていたが、原子爆弾によって全焼した。多数の船が浮ぶ画面左には中島川が見える。
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治10年代  所蔵者 学校法人産業能率大学

 撮影場所は、「福済寺裏山から」と言うより、ほぼ「立山」山頂から撮影されている。本ブログの次の記事を参照。 
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/61420708.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48985241.html

長崎の古写真考 目録番号:3814 立山からの長崎港と町並み(2) ほか (再掲)

$
0
0




 長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3814 立山からの長崎港と町並み(2)ほか (再掲)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3814 立山からの長崎港と町並み(2)

 目録番号:5108 長崎福済寺上からの長崎港(1)
  〔画像解説〕
  明治中期の長崎港を立山の中腹から望んでいる。右手に台場、海岸線の蔵屋敷や出島、県庁舎、大村屋敷などが写されている。海上には多くの船舶が停泊し長崎港の殷賑を伝えているが、画質が悪くいずれも不鮮明である。

  ■ 確認結果

 目録番号:3814「立山からの長崎港と町並み(2)」と、次の目録番号:5108「長崎福済寺上からの長崎港(1)」は、同じ写真である。〔撮影者:上野彦馬〕であろう。
 馬場 章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊83頁に、「79.墓地越しの長崎港眺望」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  79.墓地越しの長崎港眺望
 上野彦馬は周りを囲む山々から長崎湾を俯瞰した写真を数多く撮影している。No.79の写真は墓地越しにとらえたものである。台紙裏に「Nagasaki」「10.8.99」の書込みがあり、明治32年(1899)の撮影と思われる。着色写真。
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治32年(1899)  所蔵者 学校法人産業能率大学

 撮影場所は次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/54406681.html

長崎の古写真考 目録番号:4513 小菅の造船所と長崎港 (再掲)

$
0
0



      長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4513 小菅の造船所と長崎港 (再掲)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:4513 小菅の造船所と長崎港

  ■ 確認結果

 目録番号:4513「小菅の造船所と長崎港」は、〔撮影者:上野彦馬〕ではないだろうか。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊83頁に、「80.小菅からの長崎港眺望」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  80.小菅からの長崎港眺望
 上野彦馬は周りを囲む山々から長崎湾を俯瞰した写真を数多く撮影している。No.80の写真は長崎小菅からとらえたものである。台紙裏に「Nagasaki」「10.8.99」の書込みがあり、明治32年(1899)の撮影と思われる。着色写真。
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治32年(1899)  所蔵者 学校法人産業能率大学

 撮影場所は、戸町墓地の上部から。この項は本ブログの次の記事を参照。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/54828021.html

長崎の古写真考 目録番号:2888 大浦天主堂(1) ほか

$
0
0





       長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2888 大浦天主堂(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:2888 大浦天主堂(1)

 目録番号:3822 大浦天主堂(2)

 目録番号:6133 大浦天主堂(6)

  ■ 確認結果

 目録番号:2888「大浦天主堂(1)」など3作品は、〔撮影者:上野彦馬〕ではないだろうか。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊89頁に、「90.大浦天主堂」として掲載されている。同解説は次のとおり。所蔵者「長崎大学附属図書館」なら、上野アルバムにある目録番号:3822「大浦天主堂(2)」の作品だろう。

  90.大浦天主堂
 …天主堂は明治12年(1879)に改築されており、…No.90はそれ以後の撮影。台紙には…No.90には「A 176 MINAMEYAMA AT NAGASAKI.」との記載がある。…No.90は着色写真。
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 明治12年以降  所蔵者 長崎大学附属図書館

長崎の古写真考 目録番号:3797 諏訪神社の大鳥居(5)

$
0
0




      長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3797 諏訪神社の大鳥居(5) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3797 諏訪神社の大鳥居(5)
  〔画像解説〕
  明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の右側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。

 目録番号:5656 諏訪神社の大鳥居(10)

  ■ 確認結果

 目録番号:3797「諏訪神社の大鳥居(5)」と、次の目録番号:5656「諏訪神社の大鳥居(10)」は、〔撮影者:上野彦馬〕ではないだろうか。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊92頁に、「94.諏訪神社の大鳥居」として掲載されている。同解説は次のとおり。所蔵者「長崎大学附属図書館」なら、上野アルバムにある目録番号:3797「諏訪神社の大鳥居(5)」の作品だろうか。

  94.諏訪神社の大鳥居
 現在も長崎市上西山町にある、諏訪神社の参道入り口の大鳥居を撮影した写真。傘鉾や龍(じゃ)踊りなどで知られる「長崎くんち」はこの諏訪神社で行われる祭礼のひとつ。諏訪神社は上野撮影局から200メートルほどの距離にあった。写真中に「A125 SUWA TEMPLE GATE 
AT NAGASAKI」(長崎の諏訪神社の鳥居)との写し込みあり。この写真はNo.97・98・99と同一のアルバムに貼付されている。 
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 撮影年未詳  所蔵者 長崎大学附属図書館

 ニの鳥居から奥の白い鳥居を写しているが、現在の写真は上のとおり。途中に三の鳥居が建てられている。ニの鳥居脇の灯籠は同じで現存する。

長崎の古写真考 目録番号:3248 崇福寺山門(3)

$
0
0



          長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3248 崇福寺山門(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3248 崇福寺山門(3)
  〔画像解説〕
  崇福寺三門(楼門)。撮影年代不詳。最初はこの造りでなかったが、嘉永2年(1849)竜宮門造りで再建された。長崎の代表的な観光地。現存し、国指定重要文化財。

  ■ 確認結果

 目録番号:3248「崇福寺山門(3)」は、〔撮影者:上野彦馬〕ではないだろうか。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊92頁に、「95.崇福寺」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  95.崇福寺
 崇福寺は寛永6年(1629)、中国・福州地方出身の唐人たちの希望により、唐僧、超然が招かれて建立した日本最古の黄檗宗寺院で、長崎を代表する唐寺。上野撮影局に程近い鍛冶屋町にあり、竜宮門を思わせるこの写真の三門は現在も残る。この写真はNo.89と同一の台紙の同一面に貼付されている。
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 撮影年未詳  所蔵者 学校法人産業能率大学

長崎の古写真考 目録番号:3241 中島川の常夜灯 ほか

$
0
0







         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3241 中島川の常夜灯 ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3241 中島川の常夜灯(1)

 目録番号:3250 中島川の常夜灯(2)     (同写真 掲載略)
 
 目録番号:6666 中島川の常夜灯(4)

  (常夜灯の場所作品)

 目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)

 目録番号:5640 中島川と上野彦馬邸(6)
  〔画像解説〕
  中島川上流、銭屋川の上野彦馬邸(左側の大木が見える白塀の家)前。石の常夜灯(昭和57年の長崎大水害で流失)の左が中島聖堂である。彦馬の家の河原は流水を調整するためか、井堰が見える。左の人物は人力車用に敷石で舗装された車道に立っている。後方のとがった山は豊前坊、稜線は右の英彦山へと続く。

  ■ 確認結果

 目録番号:3241「中島川の常夜灯(1)」など3作品は、〔撮影者:上野彦馬〕ではないだろうか。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊93頁に、「96.中島川の常夜灯」として掲載されている。同解説は次のとおり。
 所蔵者「長崎大学附属図書館」なら、目録番号:3241「中島川の常夜灯(1)」の作品だろう。

  96.中島川の常夜灯
 長崎市内を流れる中島川とその河畔に建つ常夜灯を撮影した着色写真。中島川は長崎市の中心を流れているが、上野彦馬邸もこの川の河畔に建てられていた。
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 撮影年未詳  所蔵者 長崎大学附属図書館

 撮影場所は、次の目録番号:3802「中島川と上野彦馬邸(5)」と、目録番号:5640「中島川と上野彦馬邸(6)」に、同じ常夜灯と川の渡り石など写っている。上野彦馬邸前にあった石の常夜灯(昭和57年の長崎大水害で流失)を撮影したのであろう。
 現在の写真は、上野彦馬邸跡の少し上流側、豊前坊、英彦山が確認できる場所から写した。
 現在、桃渓橋近く二股の所に常夜灯があるが、この常夜灯ではない。

長崎の古写真考 目録番号:3807 雲仙小地獄(1)

$
0
0


          長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3807 雲仙小地獄(1)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3807 雲仙小地獄(1)

  ■ 確認結果

 目録番号:3807「雲仙小地獄(1)」は、〔撮影者:上野彦馬〕であろう。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊94頁に、「97.雲仙小地獄」として掲載されている。同解説は次のとおり。
 所蔵者「長崎大学附属図書館」なら、目録番号:3807「雲仙小地獄(1)」の作品だろう。

  97.雲仙小地獄
 雲仙小地獄は長崎県雲仙にある温泉地帯で、享保年間に湯治場として開かれた。「地獄」の名称は江戸時代にキリシタンなどに熱湯をかけて迫害したことに由来するとの説もある。明治以降も九州有数の湯治場として人気を集めた。この着色写真には「A 195 UNZEN KOJIGOKU AT NAGASAKI」と写し込まれている。No.94・98・99と同一のアルバムに貼付。 
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 撮影年未詳  所蔵者 長崎大学附属図書館

長崎の古写真考 目録番号:3809 高鉾島(16) (再掲)

$
0
0




        長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3809 高鉾島(16) (再掲)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3809 高鉾島(16)
  〔画像解説〕
  神の島の海岸から見た高鉾島。高鉾島は、キリスト教の殉教の島として海外に知られ、パッペンベルグ(PAPPENBERG)島と呼ばれていた。現在の神の島教会付近から、高鉾島を撮影したもの。明治20年頃(1887)の写真。

  ■ 確認結果

 目録番号:3809「高鉾島(16)」は、〔撮影者:上野彦馬〕であろう。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊95頁に、「98.高鉾島」として掲載されている。同解説は次のとおり。
 所蔵者「長崎大学附属図書館」なら、目録番号:3809「高鉾島(16)」の作品だろう。

  98.高鉾島
 長崎やその周辺を撮影した風景写真。No.98は長崎湾の高鉾島を写した写真。高鉾島は長崎湾口に位置し、長崎港入港の目印となってきた島である。
 …No.98には「A 139 TAKABOKO NAGASAKI」…の文字が見える。ともにNo.94・97と同一のアルバムに貼付されている。 
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 撮影年未詳  所蔵者 長崎大学附属図書館

 この項は次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/51852334.html
 現在の神の島教会付近から撮影したものではない。「ドンク岩」(現在、白亜のマリア像が建つ)から続いた岩礁の先の方から、高鉾島を撮影しているだろう。

長崎の古写真考 目録番号:3803 中島川と編笠橋(4) ほか

$
0
0





     長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3803 中島川と編笠橋(4) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3803 中島川と編笠橋(4)

 目録番号:5634 中島川と編笠橋(7)

  ■ 確認結果

 目録番号:3803「中島川と編笠橋(4)」と、目録番号:5634「中島川と編笠橋(7)」は、同じ写真である。〔撮影者:上野彦馬〕であろう。
 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊95頁に、「99.中島川と編笠橋」として掲載されている。同解説は次のとおり。
 所蔵者「長崎大学附属図書館」なら、目録番号:3803「中島川と編笠橋(4)」の作品だろう。

  99.中島川と編笠橋
 長崎やその周辺を撮影した風景写真。…No.99は長崎市内の中島川にかかる編笠橋を撮影した写真。編笠橋は中島川にかかるアーチ型の石橋の一つで、元禄年間に架橋された。その後、洪水で流出し、享和年間に再架橋されており、写真の橋は、享和年間に架けられた橋である。…No.99には「A 135 VIEW OF NAKAJIMA NAGASAKI」(長崎中島の眺望)の文字が見える。ともにNo.94・97と同一のアルバムに貼付されている。 
 撮影者 上野彦馬  撮影・流通年 撮影年未詳  所蔵者 長崎大学附属図書館

 この項は次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/61709462.html
 諏訪神社が奥に写っている。背後の高い山は金比羅山である。ながさき浪漫会編「ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和 : アルバム長崎百年」長崎文献社1999年刊のある頁に、縦長の松の木写真があり、場所がわからないよう書いていた。
 目録番号:3803「中島川と編笠橋(4)」の左半分を切り取った写真と思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:1487 岩の浸食

$
0
0



            長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1487 岩の浸食

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1487 岩の浸食
  〔画像解説〕
  珍しい岩の侵食の記録なのか、あるいは道路新設工事の写真なのか判然としない。非常に目立つ電柱とそこから伸びる電線が、近代化日本の象徴として写し取られたのかもしれない。

  ■ 確認結果

 目録番号:1487「岩の浸食」は、岩手県二戸郡一戸町の国指定天然記念物「浪打峠の交叉層」であろう。
 学習院大学史料館編「明治の記憶」吉川弘文館2006年刊24頁に、明治9年明治天皇東奥巡幸写真「末の松山(一名波打峠)」として掲載されている。(画像は後日追加)
 文化庁などの「文化遺産オンライン」による同文化財の説明は次のとおり。

  浪打峠の交叉層 ナミウチトウゲノコウサソウ
  天然記念物 地質鉱物 / 岩手県   岩手県二戸郡一戸町一戸字大越田、大道沢地内
 浪打峠は、古歌で有名な末の松山とも呼ばれ、その昔一戸から福岡へぬける奥州街道となっていた場所です。交叉層とは、現在では一般的に「偽層」(クロスラミナ)と呼ばれています。クロスラミナは、もとも地層が斜めに交叉する小規模な層の事で、流動している水、または空気の中ですななどが堆積する際に生じるものと言われており、特に末の松山のクロスラミナは、その規模が大きく、しかも外見が美しい事から国の指定となっています。層は荒い砂岩で、なかにはホタテ貝などの化石の砕屑物が層になって点在しており、美しい縞模様となっています。
この浪打峠の地層は、末の松山層と呼ばれ、今から700万年前のものと言われています。

 現在の写真は、HP「ウチノメ屋敷 レンズの目」風景の表情から。

企画展「長崎・冩眞傳來」 長崎歴史文化博物館で7月8日まで開催中

$
0
0


        企画展「長崎・冩眞傳來」 長崎歴史文化博物館で7月8日まで開催中

 次は、JRおでかけネット 長崎イベント情報から。

   長崎・冩眞傳來 知られざる日本写真開拓史
 幕末の開国と時を同じくして、日本にもたらされた写真。その最先端の地が長崎でした。来崎した外国人写真師たちは、その風景や風俗や人びとを写真におさめ、彼らから写真術を学んだ日本人の中からは、上野彦馬に代表される日本人写真師たちが誕生します。同展覧会では、長崎における写真の伝来と普及の様相を中心とした日本写真史を、「であい」「まなび」「ひろがり」の三部構成で紹介。長崎初公開となる最古の上野彦馬肖像写真をはじめ、長崎大学附属図書館所蔵のボードインアルバム(登録有形文化財)など、約300点が展示されます。

開催日時 2011年6月11日~7月8日 8:30~19:00(入館は18:30まで) ※休館日は6月21日
開催場所 長崎市 長崎歴史文化博物館 3階企画展示室
料   金 大人500円、小中高生250円
主   催 長崎歴史文化博物館、長崎大学附属図書館、読売新聞社、美術館連絡協議会、NIB長崎国際テレビ
お問い合わせ先 長崎歴史文化博物館 095-818-8366
関連のホームページ http://www.nmhc.jp/koshashin/index.html

長崎の古写真考 目録番号:3234 諏訪神社の大鳥居(3)

$
0
0



        長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3234 諏訪神社の大鳥居(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:3234 諏訪神社の大鳥居(3)

  ■ 確認結果

 目録番号:3234「諏訪神社の大鳥居(3)」は、〔撮影者:内田九一〕ではないだろうか。
 企画展「長崎・冩眞傳來」が、長崎歴史文化博物館で7月8日まで開催中。企画展HPに展示作品の一部が掲載されている。
 これによると同じ写真が、〔撮影者:内田九一〕となっている。同博物館所蔵写真。

長崎外の古写真考 目録番号:5014 隅田川の運搬船

$
0
0


          長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5014 隅田川の運搬船

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:5014 隅田川の運搬船
  〔画像解説〕
  日本橋の橋の上より、船荷で賑う日本橋川の西を望む。快晴ならばこの角度で富士山が望めた筈である。左岸は西河岸で、右奥に垣間見える橋は西橋である。水運から陸運に移行していく時代であるが、まだ運河が荷物の運送には欠かせなかった頃である。明治37年(1904)発行の
『Japan』というブックケース入りステレオ写真。

  ■ 確認結果

 目録番号:5014「隅田川の運搬船」は、〔撮影者:ハーバード・ポンディング〕ではないだろうか。
 石黒敬章氏編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊171頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

 【日本橋】記毅娃院檻娃
 日本橋より船荷で賑わう運河の西を望む。アメリカのアンダーウッド&アンダーウッド社が明治
37年に発行した、『ジャパン』というブック・ケース入りステレオ写真の1枚。撮影はイギリス生まれのハーバード・ポンディングである。立体写真は明治の末期に世界的なブームがあった。快晴ならばこの角度で富士山が望める筈だ。〔J〕

長崎外の古写真考 目録番号:1111 牡丹園(1) ほか

$
0
0



        長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1111 牡丹園(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1111 牡丹園(1)
  〔画像解説〕
  鑑賞用の牡丹の花を栽培する日覆いのある花園である。様々な色の牡丹の花の中に上半身をのぞかせて立つ2人の女性に華やぎを与えている。小川一真得意とする女性像である。

 目録番号:4310 牡丹園(2)
  〔画像解説〕
  温室の中で咲き誇る牡丹園と見物の女性たち。温室は竹で組んだ規模の大きなもの。

  ■ 確認結果

 目録番号:1111「牡丹園(1)」と、次の目録番号:4310「牡丹園(2)」は、東京の深川にあった「四ッ目の牡丹園」であろう。〔撮影者:小川一真〕だろうか。
 石黒敬章氏編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊403頁に、同じ写真が掲載されている。同解説は次のとおり。

 【四ッ目の牡丹園】記記毅横押檻娃
 深川区本村町(現江東区毛利1丁目)にあった名高き四ッ目の牡丹園。幾種類もの牡丹が牡丹園に充ちあふれ、妍を競っていた。亀戸で藤を見て、牡丹園を訪れるのが花見の順路だった。園主の成家文蔵は植文といった方が通りがよかった。障子格子に油紙を市松模様に貼って、光の調節をしている。明治中期。〔Y〕
Viewing all 2446 articles
Browse latest View live