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長崎外の古写真考 目録番号:2583 石山寺から琵琶湖を望む(1) ほか

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   長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2583 石山寺から琵琶湖を望む(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:2583 石山寺から琵琶湖を望む(1)
  〔画像解説〕
  石山寺(いしやまでら)の月見亭あたりから眺める瀬田川の流れ。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。特にこの場所は近江八景(おうみはっけい)の1つ石山秋月(いしやまのしゅうげつ)を表現する図像として、写真絵はがきなど、様々な構図で写真が残されている。

 目録番号:2932 石山寺から琵琶湖を望む(2)  (同写真 掲載略)

  ■ 確認結果

 目録番号:2583「石山寺から琵琶湖を望む(1)」と、目録番号:2932「石山寺から琵琶湖を望む(2)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊88頁に、「琵琶湖 1880年代 金幣アルバム」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  琵琶湖 1880年代 金幣アルバム
 石山の展望台から琵琶湖を望む。京都近郊の地の利から石山詣での人々で賑わった。

長崎外の古写真考 目録番号:2966 大涌谷(3) ほか

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         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2966 大涌谷(3) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:2966 大涌谷(3)
  〔画像解説〕
  明治九年(1876)東京医学校教授として来日したベルツは明治二十年(1887)大涌谷の噴泉に目を付け、温泉を医療的に利用する一大温泉場設立の建白書を内務省に提出したが、この提案は実らず、失意のうちにドイツに帰国した。写真では噴煙が上がる中、小屋に向かうと思われる人物の後ろ姿が見える。

 目録番号:3131 大涌谷(5)  (同写真 掲載略)

  ■ 確認結果

 目録番号:2966「大涌谷(3)」と、目録番号:3131「大涌谷(5)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊74頁に、「噴気の大地獄 1880年代 金幣アルバムか」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  噴気の大地獄 1880年代 金幣アルバムか
 明治5(1872)年、天皇の箱根巡幸の際に大地獄を大涌谷と改称。閻魔台と地獄沢からなり、閻魔台は現在も硫気を含んだ水蒸気を噴出している。

長崎外の古写真考 目録番号:3149 芦ノ湖からの富士山(3)

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       長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3149 芦ノ湖からの富士山(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:3149 芦ノ湖からの富士山(3)
  〔画像解説〕
  目録番号5080・4147とほぼ同じ構図である。芦の湖畔の元箱根からの景で、手前の芦ノ湖、右手の箱根神社の杜、左手の三国山の裾野、その奥に台形の均整の取れた富士山を望む構図は、箱根を代表する風景として著名である。ただ、山体が湖面に映るいわゆる逆さ富士である点が他と異なっている。

  ■ 確認結果

 目録番号:3149「芦ノ湖からの富士山(3)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊72頁に、「箱根の湖 
1890年代 金幣アルバム」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  箱根の湖 1890年代 金幣アルバム
 箱根外輪山内にひょうたん形に横たわるカルデラ湖。湖面に映るさかさ富士は美しい。現在は観光船やボートなどが行き交い、大いに賑わっている。

長崎外の古写真考 目録番号:2821 布引山入口(3)

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         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2821 布引山入口(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:2821 布引山入口(3)
  〔画像解説〕
  明治中期の、布引の滝登り口。突き当たりの坂を登ると、雌滝や雄滝に至る。現在の、山陽新幹線の新神戸駅から新神戸オリエンタルホテルあたりの風景。撮影は、横浜の写真師日下部金兵衛。左角に「1207」の文字が見えるが、同じ原版の写真には、もともと「1207. NUNOBIKI YAMA KOBE. 」とあった。目録番号4893と同じ写真。

 目録番号:4893 布引山入口(4)
  〔画像解説〕
  明治中期の、布引の滝登り口。右手向こうの山は砂山 (いさごやま) で、左手前の山との間を生田川が流れている。突き当たりの坂を登って左に曲がって少し行くと、雌滝がある。彩色は異なるが、目録番号2821と同じ写真。名所風景の中に、このあたりで暮らす人々の姿を記念撮影のように収めたのは、日下部金兵衛らしい演出。

  ■ 確認結果

 目録番号:2821「布引山入口(3)」は同画像解説や、次の目録番号:4893「布引山入口(4)」にあるとおり、〔撮影者:日下部金兵衛〕として良いのではないか。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊102頁に、「布引山 
1880年代 金幣アルバム」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  布引山 1880年代 金幣アルバム
 布引の滝の入口。坂道の奥に滝がある。西国街道の近くで、古くから貴族、文人の来訪で賑わった。

長崎の古写真考 目録番号:5881 中島川河口(2) ほか

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         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5881 中島川河口(2) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:5881 中島川河口(2)
  〔画像解説〕
  明治20年以前には中島川の河口は、現在の十八銀行の付近にあった。中島川河口に明治2年(1869)に新大橋が架設されたが、この橋の上から中島川の上流を撮影した写真。写真中央に見える橋は長久橋、左側は築町、右側は西濱町。現在と比べて川の水量が多く、中島川が物資の運搬路になっていたことが分かる。明治初期の写真。

 目録番号:4030 中島川河口(1)

  ■ 確認結果

 目録番号:5881「中島川河口(2)」は、次の目録番号:4030「中島川河口(1)」と同じ写真で、〔撮影者:スチルフリード 〕となるだろう。
 画像解説のとおり、当時の「新大橋」の上から、「長久橋」を撮影しているのは間違いないようだ。この項は次の記事を参照。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/58569154.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/58413776.html

 ところで、長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに、同じような古写真が出てくる。 http://nagasaki.n-grit.com/  
 橋は同じだが。川に浮かぶ船の数が違う。「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。「長久橋」が正しいようだが、現在もそのままとなっている。

 この写真は長崎大学データベースに見当たらない。出所を調べていたが、横浜の英字新聞ファー・イーストの写真とわかった。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊109頁に「長崎 1871年ころ ファー・イースト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  長崎 1871年ころ ファー・イースト
 長崎の河岸に、ところ狭しと並ぶ民家。長崎は入江が多く、舟は重要な交通手段であった。

長崎の古写真考 目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地

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          長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地

  ■ 確認結果

 目録番号:5313「稲佐悟真寺墓地」は、〔撮影者:F.ベアト〕だろう。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊111頁に「長崎 1860年代 ベアト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  長崎 1860年代 ベアト
 長崎市曙町、悟真寺の墓地。古くから長崎在住の中国人墓地であったが、後にオランダ、ロシア、アメリカ、イギリス等の外人墓地が造成されて、現在の稲佐国際墓地に発展した。世界でも稀な、異教徒混在の墓地。

長崎外の古写真考 目録番号:1192 熊本城(3) ほか

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         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1192 熊本城(3) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1192 熊本城(3)
  〔画像解説〕
  撮影時期は明治の初期。手前に写っている加藤清正神社の存在で大体の撮影時期が特定できる。明治4年(1871)に創建された社殿は明治7年には京町台に移されている。整理番号12-2、16-34とほとんど同一の写真。

 目録番号:6670 熊本城(6)

 目録番号: 532 熊本城(1)    (同写真 掲載略)
 目録番号: 744 熊本城(2)    (同写真 掲載略)

  ■ 確認結果

 目録番号:1192「熊本城(3)」と、次の目録番号:6670「熊本城(6)」は、同じ写真と思われる。〔撮影者:富重利平〕とも考えられる。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊112頁に、「熊本城 富重利平」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  熊本城 富重利平
 九州、熊本城の雄姿。慶長6(1601)年加藤清正の築城。大小の天守閣は明治10(1877)年の西南戦争直前の火災で焼失したが、昭和35(1960)年に復元された。

 しかし、これは最後の資料写真どおり、明治天皇の西国・九州巡幸に随行した「内田九一」が撮影した写真だろう。金子隆一氏論文HP”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置”70頁に、「図33 熊本城 左ニ加藤社」として報告されている。東京都美術博物館蔵。

長崎外の古写真考 目録番号:5331 熊本城(5)

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           長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5331 熊本城(5)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:5331 熊本城(5)

  ■ 確認結果

 目録番号:5331「熊本城(5)」は、横浜の英字新聞ファー・イーストの写真だろうか。〔撮影者:上野彦馬〕か、調査が必要である。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊112頁に「熊本 1877年ころ ファー・イースト」として掲載されている。同解説は次のとおり。上記の中心をアップしただけの同じ写真と思われる。

  熊本 1877年ころ ファー・イースト
 熊本城の外壕。坪井川畔に並ぶ民家。画面中央には、はるか遠くに熊本城が見える。

長崎外の古写真考 目録番号:1091 箱 庭

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            長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1091 箱 庭

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1091 箱 庭
  〔画像解説〕
  室内に置かれた箱庭。木で囲まれた枠の中に細い棒で二階建ての家が組み立てられ、小さな樹木や草花、灯篭、庭石が置かれている。背後の壁にはカーテンが掛かっている。

  ■ 確認結果

 目録番号:1091「箱庭」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.5 1871/8/1 に掲載された写真である。
 資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号:1081 鎌倉大塔宮 ほか

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          長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1081 鎌倉大塔宮 ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1081 鎌倉大塔宮
  〔画像解説〕
  大塔宮は鎌倉市二階堂にある後醍醐天皇の皇子護良親王を祭神とする神社。鎌倉宮ともいう。明治2年(1869)に建立。本殿裏に親王が幽閉されたと伝えられる土牢がある。

 目録番号:1088 頼朝の墓
  〔画像解説〕
  源頼朝は正治元年(1199)53歳で死去。その遺骸は鎌倉市西御門の丘陵の持仏堂に納められた。石囲いの中の古びた五輪の石塔。石垣の前後には大きな樹木が立っている。

  ■ 確認結果

 目録番号:1081「鎌倉大塔宮」(写真は違うが、2人は同一人物)と、次の目録番号:1088「頼朝の墓」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.7 1871/9/1 に掲載された写真である。
 資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号: 909 由比ヶ浜からの江ノ島

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         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 909 由比ヶ浜からの江ノ島

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号: 909 由比ヶ浜からの江ノ島
  〔画像解説〕
  由比ヶ浜からの江ノ島とあるが、写っているのは小動岬のようであるから、おそらく手前の七里ヶ浜よりの撮影か。立っている人物は渡し舟の船頭らか。

  ■ 確認結果

 目録番号: 909「由比ヶ浜からの江ノ島」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.7 
1871/9/1 に掲載された写真である。
 資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号:1065 江ノ島の神社

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          長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1065 江ノ島の神社

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1065 江ノ島の神社
  〔画像解説〕
  江ノ島神社は仁寿3年(853)慈覚大師により創建されたと伝えられる。日本三大弁財天の一つで、お岩屋と三宮からなる。写真は市寸島比売命を祭る中津宮。

  ■ 確認結果

 目録番号:1065 江ノ島の神社は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.8
1871/9/16 に掲載された写真である。
 資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号:1068 米屋と土蔵

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           長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1068 米屋と土蔵

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1068 米屋と土蔵
  〔画像解説〕
  土蔵造りの二階建ての米屋と土蔵。店先には米俵を乗せた大八車が置かれ、そのまわりには10人程の人が正面を向いて立っている。暖簾には「萬屋」と書かれている。土蔵の扉は2つとも開かれている。

  ■ 確認結果

 目録番号:1068「米屋と土蔵」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.6 1871/8/16 に掲載された写真である。
 資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号:3962 子供を背負う母親(2) ほか

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      長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3962 子供を背負う母親(2) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:3962 子供を背負う母親(2)
  〔画像解説〕
  子供を背負った母親は、長着に羽織を着ている。背負われた子供は、袖に紋(もん)のついた晴れ着を着ていることから、祝い事と思われる。

 目録番号:4062 子供を背負う母親(3)   (同写真 掲載略)

 目録番号:4896 子供を背負う母親(4)
  〔画像解説〕
  子供を背負った母親は、長着に羽織を着ている。背負われた子供は、袖に紋(もん)のついた晴れ着を着ていることから、祝い事と思われる。

  ■ 確認結果

 目録番号:3962「子供を背負う母親(2)」と、目録番号:4062「子供を背負う母親(3)」(同写真 掲載略)は、次の目録番号:4896「子供を背負う母親(4)」のとおり、〔撮影者:F.ベアト〕である。
 横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1-幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊162頁に、「226.母と子」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:4080 子守をする子供たちと老女

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      長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4080 子守をする子供たちと老女

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:4080 子守をする子供たちと老女
  〔画像解説〕
  子守をしている子供たちは、防寒のために赤ん坊を背負った上にねんねこ半天(はんてん)を着ている。しかし、足袋を履いている子供と素足で草履(ぞうり)を履いている子供がいる。

  ■ 確認結果

 目録番号:4080「子守をする子供たちと老女」は、〔撮影者:F.ベアト〕でないだろうか。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊168頁に「子供たち 1860年代 ベアト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  子供たち 1860年代 ベアト
 背景から察すると、冬の日に境内の日向で撮られた光景と思われる。まだあどけない少女の多くが、赤ん坊を背負い、ねんねこ半纏を着ている。この時代、子守の仕事をはじめとして、幼子も貴重な労働力であった。

長崎外の古写真考 目録番号:4054 合わせ鏡(3)

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          長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4054 合わせ鏡(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:4054 合わせ鏡(3)
  〔画像解説〕
  日本髪の結い具合を、合わせ鏡でみている女性。丸髷で既婚とわかる。鏡はそれぞれ大きさが違い、重ねて収納する。右に長火鉢。左にも化粧鏡が。

 目録番号:4880 合わせ鏡(4)
  〔画像解説〕
  目録番号4054と同じ写真。周辺を楕円でトリミング。

  ■ 確認結果

 目録番号:4054「合わせ鏡(3)」は、次の目録番号:4880「合わせ鏡(4)」のとおり、〔撮影者:F.ベアト〕である。
 横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2-外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊88頁に、「134.化粧」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号: 629 渡し舟(1) ほか

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        長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 629 渡し舟(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号: 629 渡し舟(1)
  〔画像解説〕
  人や荷物を大量に運ぶ事のみを目的とする平底の渡し舟。船頭が前後に1人ずつ長い竿を操っている。乗船者全てが髷を結っているので、幕末から明治初期の頃と考えられる。場所不明。

 目録番号:4886 渡し舟(7)

  ■ 確認結果

 目録番号: 629「渡し舟(1)」と、次の目録番号:4886「渡し舟(7)」は、同じ写真である。場所は東京の多摩川下流「川崎・六郷の渡し」と思われる。
 この項は次の記事を参照。  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64145724.html
 
 〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。(掲載を略したが、目録番号:3975「渡し舟(4)」、目録番号:4068「渡し舟(5)」も、ベアト撮影のため後掲する)
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊219頁に「村の渡し舟 1860年代 ベアト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  村の渡し舟 1860年代 ベアト
 渡し舟は村と村を繋ぐ水上の足として、住民や物資の運搬に重要な役割を果たした。写真では大勢の人々が見られるが、実際には定員があり、こんなには乗せられなかったようだ。

長崎外の古写真考 目録番号:2443 刺青姿の男性(3)

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        長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2443 刺青姿の男性(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:2443 刺青姿の男性(3)

  ■ 確認結果

 目録番号:2443「刺青姿の男性(3)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊232頁に、「いれずみをした人足 1890年代 金幣アルバム」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3975 渡し舟(4) ほか

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         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3975 渡し舟(4) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:3975 渡し舟(4)
  〔画像解説〕
  九人の男性を乗せた渡し舟が川岸を離れようとしている。船には人力車も乗せられている。渡し場には材木や、荷駄を積んだ二頭の馬、大勢の人の姿が見える。背後には四、五軒の藁葺き屋根の家が建っている。

 目録番号:4068 渡し舟(5)    (同写真 掲載略)

  ■ 確認結果

 目録番号: 629「渡し舟(1)」、目録番号:4886「渡し舟(7)」は前掲。この記事の目録番号:3975「渡し舟(4)」と、目録番号:4068「渡し舟(5)」(同写真 掲載略)も、場所は東京の多摩川下流「川崎・六郷の渡し」。〔撮影者:F.ベアト〕ではないだろうか。この項は次の記事を参照。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64717840.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64145724.html
 
 歌川広重 保永堂版より「川崎・六郷の渡し」は、”web浮世絵”から。北斎・広重の浮世絵と東海道の古写真ーその3 に、「1860年代「川崎六郷の渡し」ベアト撮影」とした写真があり、「川崎・六郷の渡し」とわかった。長崎大学データベースでは、目録番号:3975「渡し舟(4)」の作品。

 ただ、「ベアト撮影」とする確認が取れなかった。このたび、古写真集「異国人の見た幕末・明治
JAPAN」新人物往来社2005年刊76頁に、「渡し舟」として掲載されていることがわかった。
 同解説は次のとおり。
  渡し舟  渡し舟は村と村を繋ぐ重要な水上交通の手段であった。人や荷物を運ぶだけではなく、写真のように車や、牛などの動物の運搬にも役立っていた(ベアト撮影/着色)

長崎外の古写真考 目録番号:4005 庭園と屋敷

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           長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4005 庭園と屋敷

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:4005 庭園と屋敷
  〔画像解説〕
  戸塚村(現新宿区戸塚町)にあった旧高松藩主松平頼聡の別邸であろう。明治15年(1882)に東京専門学校(現早稲田大学)を開校した大隈重信が、2年後の明治17年(1884)にこの屋敷を購入。庭を和洋折衷に改装したという。1904年発行の写真5010では池が埋められ芝生の庭園になっている。この写真は明治初年にスティルフリード(Baron Raimund Stillfried Rathenitz)が撮影したものと思われ、大隈が購入する以前だと思われる。

  ■ 確認結果

 目録番号:4005「庭園と屋敷」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
 横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2-外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊39頁に、「51.江戸の屋敷と庭園」として、掲載されている。
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