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Channel: みさき道人 ”長崎・佐賀・天草etc.風来紀行”
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長崎の古写真考 目録番号:5632 中島川の桜馬場堰 ほか

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         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5632 中島川の桜馬場堰 ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:5632 中島川の桜馬場堰
  〔画像解説〕
  中島川上流の桜馬場町および伊良林町、中島川と鳴滝川の合流地点付近(現・中之橋付近)の風景で「桜場晴嵐」として崎陽八景に数えられている。右手建物上流は明治中期から昭和前期まで桜の名所であった「中川カルルス」である。オーストリア(現・チェコ共和国)のカルルス温泉の成分表により温泉を提供した。

 目録番号:3801 中島川の桜馬場      (掲載略)

  ■ 確認結果

 目録番号:5632「中島川の桜馬場堰」と、目録番号:3801「中島川の桜馬場」(掲載略)は同じ写真。〔画像解説〕のとおり中島川の上流部で、鳴滝川との合流地点付近(現・国道34号「中之橋」付近)にあった「桜馬場堰」を写しているのは、間違いないようだ。

 桜の名所だった「中川カルルス」は、中島川のまだ上流となる。右手建物は、現在の長崎市立伊良林小学校グランドの東端あたりと思われる。明治35年(1902年)に伊良林尋常小学校は創設された。右手建物は学校の可能性もある。
 このあたりは伊良林から中島川を渡り、桜馬場へ続く路地が残っている。詳しい検証をお願いしたい。

長崎外の古写真考 目録番号:5677 海浜の旅館

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           長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5677 海浜の旅館

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:5677 海浜の旅館
 
  ■ 確認結果

 目録番号:5677「海浜の旅館」は、神戸の「須磨の浦」であろう。
 HP「古写真館」~展示室~名所写真帖に、〔撮影者:角田吉三郎〕として掲載されている。

長崎の古写真考 目録番号: 787 お茶と煙草でくつろぐ女性たち(1) ほか

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  長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 787 お茶と煙草でくつろぐ女性たち(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号: 787 お茶と煙草でくつろぐ女性たち(1)
  〔画像解説〕
  ベアト撮影。「お茶と煙草後の日本人女性のグループ」と題されている。これは上野彦馬の写場で撮影されたものである。人物は彦馬ゆかりのものであろう。

 目録番号: 788 お高祖頭巾の女性(4)
  〔画像解説〕
  ベアト撮影。「夜の衣装」と題されている。これは女性の夜の外出着を撮影した者である。お高祖頭巾、和傘、提灯が特徴的である。提灯の紋所は「桔梗の二引き」とよばれる上野家の家紋である。

 目録番号: 789 中国人女性アーヒン
  〔画像解説〕
  ベアト撮影。「中国人女性アーヒン」と記されている。ベアトが長崎で撮影した写真のなかに含まれているが、朝日新聞社『甦る幕末』は「おもちさん、ルドルフ・リンドウスイス領事の妻」と解説している。

 目録番号: 790 長崎奉行
  〔画像解説〕
  ベアト撮影。「長崎の奉行」と記されている。この奉行は文久3(1863)年5月、目付・小納戸頭取から長崎奉行に着任し、慶応2(1866)年1月に離任した服部長門守(常純、左衛門左)である。

 目録番号: 791 日本の商人と子供
  〔画像解説〕
  ベアト撮影。「日本人の商人と子供」と記されている。場所は椅子の形状、敷物の柄、床の様子から明らかに上野彦馬の写場である。これらの人物は彦馬ゆかりのものであろう。

  ■ 確認結果

 目録番号: 787「お茶と煙草でくつろぐ女性たち(1)」など5作品は、いずれもベアト撮影。目録番号: 791 のタイトルは、正しくは「日本人の商人と子供」か?
 長崎大学附属図書館HP「古写真仮想展示会」には、次のとおり解説している。撮影場所は「上野彦馬の写場」などである。目録番号: 790「長崎奉行」と同じく、〔撮影地域:長崎〕となろう。

                   ベアトによる長崎写真  1864-66年

 ベアトは1枚目に「お茶と喫煙をすませた日本の女性たちの集団」と記している。場所は上野彦馬の写場である。2枚目は「夜の装束」と題しているが、紋所は「桔梗の二引」(上野家の家紋)である。女性は上野彦馬の姉妹の一人であると思われる。3枚目は「中国の女性ア-ヒン」、4枚目は「長崎の奉行」と記されている。5枚目は上野撮影局の写場で撮影された「日本の商人と子供」である。この一連の写真からベアトと彦馬の直接の交流が明白である。

長崎の古写真考 目録番号:1767 風頭からの港町 ほか

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        長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1767 風頭からの港町 ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1767 風頭からの港町
  〔画像解説〕
  上野彦馬の撮影による風頭山から望む長崎市街と長崎港。出島の横には中島川口に架けられていた大橋を見ることができる。当時、新地浦にはまだ海水が流入していた。出島側には西役所の遺構が見られ、旧県庁舎はまだ建てられていない。明治初年の写真。

 目録番号:5897 長崎市街と長崎港(5)
  〔画像解説〕
  風頭山から長崎市中と港を展望したもの。左隅の新地蔵の付近は埋め立てが進み、新しい建物が建築中であるが、内側はまだ石垣がそのまま残っている。出島と出島橋、明治2年(1869)に架けられた新大橋の架かる築町には白い洋館が見える。明治4年から5年(1871~2)頃の撮影。港の内には軍艦や船が停泊し、対岸には飽の浦の造船所、稲佐方面が展望される。

  ■ 確認結果

 目録番号:1767「風頭からの港町」と、次の目録番号:5897「長崎市街と長崎港(5)」は、同じ写真である。〔撮影者:上野彦馬〕である。
 上野一朗氏編「写真の開祖 上野彦馬 ー写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部発行に掲載されているらしい。

 扇精光株式会社作成のHP「上野彦馬ギャラリー」を参照。過去と現在のムービーを見ることができる。同説明は次のとおり。  http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html
  長崎市街
 昔:長崎市街、明治21年(1888)撮影
 今:平成11年3月(1999)伊良林3丁目風頭公園展望台から撮影

長崎の古写真考 目録番号:6662 眼鏡橋(3)

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           長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6662 眼鏡橋(3)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:6662 眼鏡橋(3)

  ■ 確認結果

 目録番号:6662「眼鏡橋(3)」は、〔撮影者:上野彦馬〕ではないだろうか。
 同じ写真が、上野一朗氏編「写真の開祖 上野彦馬 ー写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部発行に掲載されているらしい。

 扇精光株式会社作成のHP「上野彦馬ギャラリー」を参照。過去と現在のムービーを見ることができる。同説明は次のとおり。  http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html
  眼鏡橋
 昔:眼鏡橋、撮影時期不明
 今:平成10年12月(1998)眼鏡橋より下流の袋橋の上から撮影

 ベアト作品は、次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/58267451.html

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「出島」 ほか

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      長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「出島」 ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:な し 上野彦馬撮影「出島」 ほか

  ■ 確認結果

 扇精光株式会社作成のHP「上野彦馬ギャラリー」に、貴重な写真がある。過去と現在をムービーで対比できる。ほぼ正確な撮影場所を探し出している。ほかの撮影者が写した関係写真の参考となる。   http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html

 出典「写真の開祖 上野彦馬 ー写真に見る幕末・明治ー」発行所:産業能率短期大学出版部 発行者:上野一朗から5作品。3、4は、長崎大学のデータベースにあり、前記事としているので参照。あらためて全部を紹介する。

 1 出 島   オランダ坂の上、中新町の墓地の中から撮影
 2 長崎港   立山2丁目長崎ホテル横の空き地から撮影
 3 眼鏡橋   眼鏡橋より下流の袋橋の上から撮影
           http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64603421.html
 4 長崎市街  伊良林3丁目風頭公園展望台から撮影
           http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64603298.html
 5 長崎港   稲佐山の山の中(多分、中腹位)から撮影 

長崎の古写真考 目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2) ほか

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   長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)

 目録番号:4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)
  〔画像解説〕
  東山手居留地の背後の山から、十人町、新地蔵、出島、長崎湾口を鳥瞰したもの。出島から築町に出島新橋が架設されているので、明治初期の写真。新地蔵、出島、その背後の築町、江戸町さらに大波止周辺の沿岸部が見える。

  ■ 確認結果

 目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」と、次の目録番号:4863「ドンの山から見た出島と長崎港(3)」は同じ写真である。〔撮影者:スチルフリード(?)〕となっている。

 HP「放送大学附属図書館所蔵古写真展 日本残像 ―写真で見る幕末、明治―」にも掲載されており、同解説は次のとおり。撮影者は、スチルフリード? 内田九一? どちらだろうか。
 前の記事で見た上野彦馬作品と出島の形が違い、ドンの山の山頂あたりから撮影されているのは間違いないようだ。ドンの山は、次を記事を参照。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/47656833.html

   長崎 東山手より出島を望む
 画面中央が出島で、橋で築地町と結ばれている。ベアトが1865年6月と記載したほぼ同じ写真を一枚残しているが、建物が違っている。この写真はベアトより少し後になってから内田九一が撮影したものと思われる。明治初年の撮影。

長崎外の古写真考 目録番号: 896 海水浴

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            長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 896 海水浴

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号: 896 海水浴
  〔画像解説〕
  海水浴というよりも、サザエ採りのような海の労働をしている男たちを写しているようである。逆光気味に、砕ける白い波をきっちり写し取っており、写真技術が相当に高いレベルに達していることを示している。

  ■ 確認結果

 目録番号: 896「海水浴」は、神奈川県「江ノ島海岸の鮑採り」の風景ではないだろうか。
 HP”江の島マニアック”「江の島岩屋と磯」の項に、絵葉書「相州江ノ島海岸ノ鮑採り」が掲載されている。
 遠景の半島が写っていないなど違いがあるが、中央の岩場や4人の構図は不思議なほど良く似ている。

長崎外の古写真考 目録番号: 117 江ノ島海岸(1) ほか

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         長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 117 江ノ島海岸(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号: 117 江ノ島海岸(1)
  〔画像解説〕  省略 写真のとおり。以下、同じ。
 目録番号: 292 江ノ島の兜岩
 目録番号: 373 江ノ島(3)
 目録番号: 374 江ノ島の洞窟(2)
 目録番号: 909 由比の浜からの江ノ島
 目録番号:1203 江ノ島(11)
 目録番号:1514 江ノ島聖天島
 目録番号:1730 江ノ島(13)

  ■ 確認結果

 HP”江の島マニアック”「江の島の古写真」の項が、長崎大学データベースの江ノ島関係古写真から29作品を取り上げ、解説している。 http://mirabeau.cool.ne.jp/enoshima/
 その中から撮影場所など、具体的に参考となるのが次のとおりある。本ブログの前記事も参照。

 目録番号: 117 江ノ島海岸(1)
   撮影場所は、現在の「片瀬東海岸」。正面に見えるのは小動岬。
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/63966754.html

 目録番号: 292 江ノ島の兜岩
   江ノ島の兜岩ではなく、「エボシ岩」。
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/59549512.html

 目録番号: 373 江ノ島(3)
   撮影場所は、奥津宮を過ぎて稚児ヶ淵へ降りる。現在の「魚見亭」のある場所。

 目録番号: 374 江ノ島の洞窟(2)
   江の島の「第一岩屋」。マニアックの解説「舟からのアングル」?は、調査が必要。

 目録番号: 909 由比の浜からの江ノ島
   写っているのは「小動岬」。「七里ヶ浜」からの撮影。

 目録番号:1203 江ノ島(11)
   マニアックの解説は、撮影者(保管者):上野彦馬?。調査が必要。

 目録番号:1514 江ノ島聖天島
   「聖天島」は、埋め立てられ普通の小山になった。現在の江の島「東町海岸」。
   http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/63966754.html

 目録番号:1730 江ノ島(13)
   撮影場所は、「龍口山」から見た江の島。

長崎外の古写真考 目録番号: 401 嵐山(2)

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            長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 401 嵐山(2)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号: 401 嵐山(2)
  〔画像解説〕
  嵐山を背景に、広くゆったりとした桂川が流れている。川岸には、3階建てで広い縁をもつ、料理屋らしき建物がある。

 目録番号:4493 嵐山の三軒茶屋(3)
  〔画像解説〕
  嵐山渡月橋北岸西側の三軒茶屋「旗亭」を保津川南岸から北に望む。三軒茶屋は中央部が3層、東部と西部が2層となり、東部と中央部は棟続きとなっている。三軒茶屋の東西両側の保津川岸には、長い屋根付きの床が設けられ、嵐山を鑑賞する構造となっている。

  ■ 確認結果

 目録番号: 401「嵐山(2)」の、「3階建てで広い縁をもつ、料理屋らしき建物」は、次の目録番号:4493「嵐山の三軒茶屋(3)」のとおり、嵐山渡月橋北岸西側の三軒茶屋「旗亭」である。
 [食べログ」京都 嵐峡館 らんきょうかんによると、田山花袋の「日本温泉めぐり」〜近畿の温泉〜(ランティエ叢書)に、次のとおり京都「嵐山温泉」の話がでてくる。

 京都の嵐山の奥にある温泉、あれなども人は大騒ぎをして出かけた。炭酸泉で、温度が摂氏の十一度と言うのだから、そう大したものではないのであるが、温泉に乏しい近畿地方では、これでも頗る珍としなければならなかった。
 それに、京都に近いので、その旅舎の設備は、温泉という名に呼んではあるけれども、どっちかと言えば、旗亭がつれ込宿の設備で、金もかかるし、おうと落ち着いていられるような処でもなかった。それでも、花か紅葉の時に、舟をそこまで曳かせて上って来て、川に臨んだ欄干に凭れながら、静かに盃をふくむのもまた旅情を慰める一つである。

 しかし、田山花袋本で語られているのは、平成16年3月に開湯した渡月橋近くにある嵐山温泉(上河原町)ではなく、(元禄山町)の嵐山温泉のことらしい。
 保津川の西京区側の河畔、亀山公園の向かいに建つ純日本建築の一軒宿のようです。どうやら「嵐峡館」のことのようです。渡月橋のふもとから旅館まで、遊覧船に乗って行くそうです。

長崎外の古写真考 目録番号:1075 玉尾稲荷祭礼

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          長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1075 玉尾稲荷祭礼

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1075 玉尾稲荷祭礼
  〔画像解説〕
  川を隔てて見た玉尾稲荷の祭礼。昇りには「玉尾稲荷大明神」と書かれている。石垣で護岸工事がなされた川には船着場が作られ、川には屋形船が浮かんでいる。

  ■ 確認結果

 目録番号:1075「玉尾稲荷祭礼」は、東京都中央区東日本橋3丁目、清洲橋通り近くに残る「玉尾稲荷神社」ではないだろうか。
 現在の写真は、中央区観光協会特派員「北遊人」ブログの東日本橋稲荷巡りから。

長崎外の古写真考 目録番号:1175 町中の鯉のぼり

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          長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1175 町中の鯉のぼり

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:1175 町中の鯉のぼり
  〔画像解説〕
  町の中の鯉のぼり。道路に4本の鯉のぼりが風に泳いでいる。手前の家は二階建て。少し先の家の屋根の上に物干し台がある。道には多くの人が歩いており、日傘を差した女性の姿も見える。

 目録番号:4907 鯉のぼり(3)
  〔画像解説〕
  原題は Boys Festival at Yokohama. 平屋建の小さな家が並んでいる。瓦葺きと並んで檜皮葺様の屋根も見える。都心から少しはずれた地域の写真と思われるが詳細は不明。

  ■ 確認結果

 目録番号:1175「町中の鯉のぼり」は、次の目録番号:4907「鯉のぼり(3)」と同じ場所を撮影し、〔撮影地域:横浜〕となると思われる。
 物干し台とその家の屋根が同じである。

釣れた? 釣具店の釣人 (20)  長崎市平山町

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               釣れた? 釣具店の釣人 (20)  長崎市平山町

 長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
 Fishing shop OGAWA

 九州北部は梅雨入り。

長崎の古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」

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     長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:な し 上野彦馬撮影「長崎の運河」
  〔画像解説〕
  長崎の運河とそこに浮かぶ木造の小舟。当時の長崎では数多くの運河が掘削され、物流の回路が形成されていた。「Nagasaki.Japan.One of the numerous Canals.intersecting the Native City.“Low water.”」(地元の街を交差する多数の運河のひとつ、低水位、長崎、日本)との書込みがある。

 ■ 確認結果

 馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年刊54頁に掲載がある「41 長崎の運河」。上野彦馬が明治6年(1873)頃撮影。学校法人産業能率大学の所蔵写真。
 長崎大学データベースに見当たらない。具体的な撮影場所の解説がない。

 写真中央左にアーチ式石橋が写る。新地蔵の銅座側門口に昔から架かっていた石橋「新地橋」である。後ろの木立の高台は大徳寺跡。左端奥から愛宕山の稜線が下る。
 現在の十八銀行本店前あたり、中島川河口に架かっていた「新大橋」の上から、合流する銅座川を向いて、「新地橋」手前の舟だまりを写していると思われる。

 この作品は、上野彦馬撮影次の目録番号:6078「大徳寺跡から新地と出島を望む」を参照。
 長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の29頁による解説は次のとおり。
 「新地橋」を大徳寺跡から、逆方向に写している。「新地橋」の貴重な石橋写真であるのに、「新地橋」には注目されていない。

21 大徳寺跡から新地と出島を望む   278×215
 明治元年(1868)に廃寺になった大徳寺跡から新地ごしに出島を望む。明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋と中島川河口部の長さ48.6mの新大橋、さらに梅香崎と西浜町を結ぶ梅香崎橋が見える。前ニ者は木製の桁橋である。出島右の茂みの中に県庁舎は見えない。遊歩道建設のための出島の築石の石垣が新しい。左の新地蔵裏の内海の埋立が進んでいるのがわかる。右の川は銅座川。(21・22・23は3枚組写真)

 「新地橋」の記事は、  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/58928608.html
 「広場場橋」の写真は、 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/61802633.html
                 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/63437649.html

長崎外の古写真考 目録番号:2142 入 浴

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             長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2142 入 浴

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:2142 入 浴
  〔画像解説〕
  女性二人の入浴シーンであるが、写真は豪華な湯殿を映し出している。左隅には大理石の水桶が置かれ、窓にはガラス絵が入れられ、欄間や天井の細工も豪華である。箱根か熱海の温泉か。

  ■ 確認結果

 目録番号:2142「入浴」は、箱根温泉であろう。同じような湯殿が、石黒敬七氏著「写された幕末ー石黒敬七コレクション」明石書店1997年第4刷刊164~165頁に写されている。
 同解説は次のとおり。

  山の出で湯
 〔声初年箱根温泉の豪華な内湯、既にガラスがはめられている。

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか(再掲)

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    長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか(再掲)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
  〔画像解説〕
  鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

 目録番号:4878 ドン山(から)見た大浦居留地・出島  (掲載略)

  ■ 確認結果

 山川出版社が最近、2011年4月25日発行したばかりの古写真集「レンズが撮らえた 幕末の日本」。202頁に掲載がある「鍋冠山からの長崎港」。同解説は次のとおり。
  鍋冠山からの長崎港 (長崎大学附属図書館蔵)
 1865年頃/F.ベアト撮影。右手に見える出島の右側に明治元年(1868)に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応元年と思われる。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

 長崎大学データベースでは、目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」などの作品。以前から再三指摘しているが、撮影場所は「鍋冠山」や「ドンの山」からではない。「星取山」が正しいだろう。
 データベースがこんなタイトルや画像解説のまま、長年放置しているのは利用する側が非常に困る。本ブログの次の記事を参照。
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/54748371.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/49731730.html

 大浦川が左上に斜めに上り、弁天橋が河口に架かり、その左が南山手居留地である。「鍋冠山」や「ドンの山」からは、大浦川や長崎港はこのような景色とならない。「星取山」の山頂から撮影された。現地確認した現在の写真は上のとおり。山頂は現在、木立があり、景色が見える下の「港ヶ丘パーク墓苑」から写した。
 長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地」平成15年刊第3版の42頁に同じ古写真が掲載されている。同138頁による「図版説明」は次のとおり。

 25 星取山から長崎港を見下ろす         長崎大学附属図書館所蔵
 星取山の山上付近から長崎港を見下ろしたもので、手前に大浦、東山手の居留地、右手に出島と旧市街地、港の向こうには大きく広がった浦上川の河口部と対岸・淵村の集落が望まれる。出島にはその左端に慶応3年(1867)に造成された馬廻しの突出がみえるが、明治2年2月に築町間に架設された出島新橋がないので、明治元年頃の撮影と推定される。東山手の丘上には、旗竿を立てたイギリス領事館の2階建て洋館の背面がみえている。

長崎の古写真考 目録番号: 654 高鉾島(2) ほか

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         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 654 高鉾島(2) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号: 654 高鉾島(2)
  〔画像解説〕
  戸町から長崎港口の高鉾島を望む。右からの張り出しは神崎、左からの張り出しは女神である。多くの写真家がこのアングルの高鉾島の写真を残している。この写真は整理番号26-23と同一と思われる。写真下には「長崎港への入口」と英語で書かれている。

 目録番号: 692 高鉾島(4)     (掲載略)
 目録番号:1204 高鉾島(7)     (掲載略)
 目録番号:3244 高鉾島(15)    (掲載略)
 目録番号:4484 高鉾島(40)    (掲載略)
 目録番号:5239 高鉾島(42)    (掲載略)
 目録番号:5560 高鉾島(30)    (掲載略)
 目録番号:5621 高鉾島(31)    (掲載略)
 目録番号:6119 高鉾島(44)    (掲載略)

  ■ 確認結果

 長崎港口の「高鉾島」関連作品。目録番号: 654「高鉾島(2)」など9作品は同じ写真である。〔撮影者:F.ベアト〕であろうか。現在の写真は、戸町墓地の上部から。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る幕末・明治」世界文化社2000年刊14頁に、「長崎 高鉾島 1860年代 ベアト」として掲載されている。

 ベアトの「高鉾島」作品は、次の目録番号:5366「高鉾島(27)」が、その写真であるが、上記の写真もそうだろうか?
 この項は次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/64537381.html 

長崎の古写真考 目録番号: 652 中島川阿弥陀橋と高麗橋(1) ほか

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      長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 652 中島川阿弥陀橋と高麗橋(1) ほか

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

 目録番号: 652 中島川阿弥陀橋と高麗橋(1)
  〔画像解説〕
  手前に阿弥陀橋、奥に高麗橋が写っている。上流から下流に向かって撮影されている。近くには上野彦馬邸があった。

 目録番号: 693 中島川阿弥陀橋と高麗橋(2)  (掲載略)
 目録番号:5589 中島川阿弥陀橋と高麗橋(3)  (掲載略)

  ■ 確認結果

 目録番号: 652「中島川阿弥陀橋と高麗橋(1)」など3作品は、同じ写真である。〔撮影者:ベアト〕であろう。
 小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊14頁に、「長崎の石橋 1860年代 ベアト」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:6495 浦カスミ

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            長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6495 浦カスミ

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:6495 浦カスミ

  ■ 確認結果

 目録番号:6495「浦カスミ」は、東京霞ヶ関で「外務省」であろう。
 小沢健寸氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊26~27頁に、同じ建物が「外務省 1872年ころ ファー・イースト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  外務省 1872年ころ ファー・イースト
 コレクションの資料には外務省となっている。明治2(1869)年太政官制の改革により外国官制を廃して外務省創設。人力車が斜めを向いているのは、坂道で加速しすぎないように蛇行しながら下っているため。

長崎外の古写真考 目録番号:5708 鶴岡八幡宮若宮社(2)

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       長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5708 鶴岡八幡宮若宮社(2)

 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

 目録番号:5708 鶴岡八幡宮若宮社(2)

  ■ 確認結果

 目録番号:5708「鶴岡八幡宮若宮社(2)」は、〔撮影者:ベアト〕であろう。
 小沢健寸氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊57頁に、「鶴岡八幡宮・神楽殿と若宮社 1864年ころ ベアト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

  鶴岡八幡宮・神楽殿と若宮社 1864年ころ ベアト
 ベアトの撮影隊は八幡宮階段下に器材を置いて、その周囲を一周するするように撮影した。左の階段に腰かけスケッチする人物はベアトの友人の画家ワーグマンであろう。一行と日本人助手を知的に配置している。
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